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西山修平×沢山遼 対談:
ヴィデオのメディウム・スペシフィティ

20141117videomontage-nishiyama (2).jpg [video reflexive vol.4] ヴィデオ:コラージュ/モンタージュ Video : Collage / Montage vol.2 西山修平 Shuhei NISHIYAMA ヴィデオ・モンタージュ/シュレッダー

2014年11月14日[金] 19:30- アップリンク・ファクトリー

Vol.2では西山修平の作品を特集し、そのモンタージュとして読み、更にデジタル時代のモンタージュ理論の可能性を西山作品を通して考える機会となりました。美術批評家の沢山遼氏をゲストに西山修平作品の構造的な部分と、編集作業のない作品にも同様に見られる一貫性について語っていただきました。


トークセッション 西山修平×沢山遼 進行:瀧健太郎

沢山(以下S)::前回の上映で、瀧さんは主にコラージュによって映像をつくるということをされていました。で、今回、西山さんの映像も、複数の映像を組み合わせるコラージュやモンタージュの形をとられていますね。例えば、映画とヴィデオの違いで一番大きいのは、映画のモンタージュは基本的にあるショットの後に別のショットがくるという、その組み合わせでなにか新たな意味が発生することが、モンタージュの基本的な言語だと思うんですね。例えば、ある人物が映っていて、でその人物がどこかに視線をやると。

西山(以下N):
うん。

S:次のショットでこのコップが映ると、あたかもその人物がこのコップを見たかのように、鑑賞者の中で内面化される。全くバラバラのもの同士を鑑賞者の内部で結合して、新たな意味が発生するというのがエイゼンシュテインなどが言ったモンタージュの理論。だけどヴィデオによって何が可能になったかというと、同一平面上で、つまり鑑賞者によって内面化される前に、即物的にそれが行われるという点ですね。だから瀧さんや西山さんのコラージュ、モンタージュの方法論は実は非常に近い。同一平面上で分割・結合が即物的になされていることが、大きな条件になっていると思います。それがヴィデオの特徴というか、映画とヴィデオが正に分かたれる部分ですね。

N:そうですね。それによって映画は一つのストーリーみたいなものしか基本的にはモンタージュとして出てこないかも知れないですけど、ビデオはそこで複数意味が重なっていったり、複数衝突が起きたりすると思うんですよね。

S:映像というのは、基本的にフィルムの場合は、モンタージュという技法に顕著ですが、 前に進まないといけない。このショットの後にこのショットが来て、で次にそのショットが来るというように連続してゆく。ですが、西山さんの映像の場合は無関係な映像が非連続的に接続されているから、前に進んでいるという感覚を与えないですよね。そのことと、西山さんの映像でよく見られる逆回しは対応していると思う。フィルムだと次々に ショットとショットの繋がりが乗り超えられていかなきゃいないっていうのがあると思うんだけど、その部分が即物的な衝撃として投げ出されている。それが、西山さんの映像の特質であるところの、時間的な構造として現れている感じがしますね。前へ進んでいかないという。 たとえば《ビトウィーン・イメージ》という作品では、ずっと同じシーンが繰り返されている。しかも、何でこれを選んだんだろう、みたいな映像が。

N:

S:貧しいって言っちゃいけないけど。どうでもいいような映像というか。

N:まぁそうですね。でも、なかなかどうでもいいような映像って難しいんですよ。何かを撮ると何からの意味になってしまうので。それをどうでもいいように、見せる方法って結構難しくて。

S:だから、ファウンドフッテージのようにも見える。だけどあれは全部西山さんがひとつのショットとして撮ってるわけですよね。で、それが繰り返されている。このことは、映像のアーカイブの問題にも関わってきて、前回の瀧さんのトークの時に彼は、TVをひたすら録画して膨大なアーカイブからその何個かを選択して、それらを組み合わせると言ってましたが、西山さんの場合は膨大な映像のなかから、これをどうやって選んだんだろうと思って。

N:そうですね、僕、割と日常的に当時からヴィデオカメラを持ち歩いてて、皆スマホとかで日常的に撮れるんですけど、当時は小型のハンディカムを持ち歩いて気になるものを撮影してました。でも2002年なので結構前(12年前)で、今見ながらどうしてこんなの作ったんだろうって自分で思ってました。花みたいなところをバーッてこう撮るやつだけはすごく覚えてて、僕の中で純粋性みたいなものをイメージして、その他のものはゴミみたいなもので、そのゴミみたいなものとその純粋性みたいなものが交換するっていう構図を出したかったんだなと思って見てました。なのでなるべく純粋性に対するゴミみたいなものを撮った素材の中から探したような記憶があります。

S:じゃ、(映っている)人々はゴミなんですか?

N:そうです、そうです。あ.、「そうです」じゃないか(笑) 不純なものとして見えたんですね。

*    *     *
《通時的かつ共時的モンタージュ》"Diachronic and Synchronic Montage"(2014)西山 修平

1_100_shuhei_nishiyama.jpg西山修平《タイムレスヴィデオ timeless video: 1 / 100*100 》(2013)

沢山(以下S): 西山さんの作品では、映像を柱上あるいは横のラインに輪切りにして、「共時的」に全部同時に見せているもの、たとえば《タイムレスヴィデオ timeless video: 1 / 100*100 》のような作品がありますね。厳密に言うと、あらゆる時間がひとつの画面内に同時並行的に見えている。しかも音声も同様に裁断化されている。だけど音声は全部同時に聞こえてしまうとノイズになる。音声のほうはかなりカオティックになって、映像との違いがかなり明確に現れていますね。ヴィデオはフィルムと異なり、音声と映像が一体化したメディアですが、モンタージュの操作を経ることで、かえって音声と映像との質の違いが明瞭に現れているわけですね。  

西山(以下N):そうですね。《タイムレスヴィデオ》を作ったときは「いろんなものを盛り込んじゃえ」と思って。女優さんの映像を勝手に切り刻んで申し訳なかったんですけど、やってみたらそれが好きな人がいるんです。   S:作り手としてはあの快感に溺れそうになるんじゃないかと。しかし、やはりヴィデオというメディアがもっている構造自体を提示しなければということが課題としてあるのではないかと思いました。  

N:そうなんですよ。  

S:『マトリックス』みたいになってもしょうがないじゃないですか。(一同 笑)  

N:一般的にどうですかね。あんまりウケませんかね。  

S:いや、ヴィデオアートってそういうもんじゃない? ヴィデオアートの専門書に「忍耐を要する」と書いてあったくらい。(一同 笑)忍耐を要することが、ビデオのメディウム・スペシフィシティなのか、と。  

N:ヴィデオアートってメディアに対して凄く考えるじゃないですか。 

S:自己言及的って意味でね。  

N:メディアに対するモダニズムの芸術だと思う。  
***
nishiyama.jpg 《自由のための無料DVD》"FREE DVD FOR FREE"(2012) 西山 修平

20141117videomontage-nishiyama (3).jpg

S:写真家の中平卓馬さんを偶然見かけ、ひたすら追跡するワンショット、ワンシークエンスが凄く印象的な《Waiting for looking for...》がありました。カメラが最初に中平卓馬さんを追いかけ始めたとき、いったいどんな目的がそこにあるのだろうと鑑賞者のほうは期待して見るわけです。だけどその期待はだんだんはぐらかされていく。実は、中平さん自身が亡霊のように何を目的としているか自分でもわかっておらず、どこに行こうとしているのかもわかっていない。肩からカメラをさげているけど、写真家として何か被写体を探している風でもない。完全にリニアな構造には回収できないという意味で、西山さんの作品構造に一貫したものがあるなと思った。西山さんの作品としては珍しく、編集作業が介在していない作品なのだけど、まさにモンタージュ的に複数の意図あるいは時間が、切り刻まれて宙吊りになってしまう。撮影者のほうも、一体中平さんは何をしてるのだろうかと途中から思い始める。そしてその独白が字幕で入り始める。  

N:(笑)。撮影側と映像を見る側をIとYOUみたいな形で分けたんですが。僕自身も中平卓馬が写真を撮るところを期待して始めは追いかけ、見る側も撮ることや何かのアクシデントやハプニングを期待し始めることが二重に出てくるかなと思って。あの徘徊は、中平卓馬を映像の中 に置くことによって逆に地下街みたいなものが見えてくるんです。普通に地下街を撮ってもそれは地下街とすら映らない雑然とした景色でしかないけど、「彼が何かを探しているかも知れない」と見ることで、異様ささえ感じられ、当たり前になってるけど非常に混沌としたことが逆に見えてくる構造がある気がして。も う一つには、買い物する人と同じ視線を意識してました。欲しいものを探す意味で消費者的な徘徊について。  

S:うん。あの映像は、この映画館で見たっていうのもあるかも知れないけど、音がすごく印象的ですね。中平さんが切符を買っているシーンとか。音がジョリジョリって。すごく印象的。映像を見ている我々が中平卓馬同様にある種の宙吊り状態になるというか。そこで、映像のシークエンスと関係のない、なにかの音のような別種の情報がフレームアップされてくるという感じがしますけど。 

N:そうですね。当時僕もよく徘徊していて、同じ年に中平卓馬さんに3回街で出会ってまして…。(一同笑)

waitingforlookingfor1.jpg西山修平《Waiting for looking for...》(2005)

[プログラム]
ビィトウィーン・イメージズ between the images( 2002, 10min) /ウェイティング・フォー・ルッキング・フォー Waiting for looking for...(2005.12min) /SHOT マルドロールのヴィデオより SHOT from Video of Maldoror (2007, 10min47sec) /未来の形象 the figure in the future (2009, 11min)/タイムレスヴィデオ timeless video: 1 / 100*100 (2013, 9min)/瞬く間に in the twinkling of an eye (2013, 6min)/切断|重層 scission ¦ overlays (2014, 10min)

関連サイト:現代美術や映画で亜流として培われてきた“ヴィデオ”という複製芸術

ウェブリンク:ヴィデオ:コラージュ/モンタージュ Video : Collage / Montage vol.2 西山修平 Shuhei NISHIYAMA ヴィデオ・モンタージュ/シュレッダー

瀧健太郎×平本正宏 対談:ヴィデオ・コラージュから空間表現へ




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