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「ビデオのピクセル 」 by服部かつゆき

「ビデオのピクセル 」
服部かつゆき
 
 ビデオ画像は、例えどのような図像でも、明滅するピクセルの集合によって像を生じさせる。それは明滅する各ピクセルの濃淡と色調の差が生じることで、像として認識される。このピクセルの1粒は、赤、緑、青の3色で構成されていて、各色256階調、計1677万7216階調の表現の幅を持つ。(*1)

hattori200510b.jpg 私は今このピクセルがもつラチチュードを、ビデオ表現における根本原理としてとらえている。写真や映画のフィルムがもつラチチュードとビデオのそれとを比べると、いくらか狭い階調幅ではあるが、写真にはない経時性や、映画では達成できない即時性などの特性がビデオにはあり、それらを活用することで、先覚メディアと同様、芸術的に優れた作品をつくることができる。


 ところが、ビデオがカメラ構造と記録構造の複合媒体であるために、カメラ構造がとらえる現実の鏡像に、作品としての注意が多くはらわれる傾向がある。写 真や映画にくらべると鏡像をとらえることがより簡単なビデオは、社会活動のメディアとして、また安易な劇映画制作の代替えとしてなど、多岐に使われてい る。

 しかし、今の私にとってビデオのカメラ構造は、興味の対象外である。なぜなら、世界の鏡像を映しとるカメラ構造は、ビデオに特有の もではないからだ。写真と映画のカメラ構造はまさにビデオのそれと同じであるし、さかのぼれば絵画においてもカメラ構造の原型といわれるべきカメラオブス キュラが利用されている。世界を写すことで、その時代の社会性を訴えたり、読み取ったりすることは、ごく当たり前にビデオ技術以前の表象メディアでもおこ なわれてきている。社会的問題は、直にその問題に取り組むほかなく、表象化することでは慰め程度にとどまってしまうのではないだろうか。(もっとも、問題 に対する具体的な取り組みが、必然的に表象化につながることはあるだろうし、その場合の必要性はとりたてて否定はしない。)

hattori200510c.jpg

  ビデオはそのカメラ構造より後ろの記録構造、撮像板や記録のためのハードウェアやソフトウェア、において先覚メディアと異なる。この記録構造の可能性を発 見、拡張し表現へとかえることを現在アート・ユニット・ゴールデンシットでおこなっている。そして、この文章を記す契機となった「暴れ!こいのぼり。」 (2005*2)は、拙作でVCTのライブラリーにも収蔵されている「core m.v.a.」 (1997)において試みた映像表現要素の探求を多く継承している、と言える。

服部かつゆき(ビデオ・アーティスト)

関連サイト:ゴールデンシット (アート・ユニット)

[脚注]
*1: 8bit の色再現の場合。10bit の場合は各色1024階調、計10億73,74万1,824階調。いずれも理論上の色数。

*2: 2005年5月に京橋アートスペース木邑(ASK?)と、7月に大塚OUTLOUNGEにて催されたGOLDENSHITのビデオアートライブパフォーマンス。色調補正をエフェクターとしてフィードバックやフリッカーを多用し、アナログ機材を駆使し、クラブVJなどと一線を画するものとなっている。

[photo] 服部かつゆき参加のアート・ユニット、ゴールデンシット「暴れ!こいのぼり。」(2005)から