カテゴリ:2005

ステートメント

ビデオアート・セッションは2005年ごろまでビデオアーティストワークショップとして開催されてきました。
※以下、1998年~2005年までのビデオアーティストワークショップについてのステートメントになります。

What is Video Artist Workshop?

STATEMENT

河合政之 00. 8.27

ビデオの現状と「ビデオアーティスト・ワークショップ」

 1963年3月にドイツ、ウッパータールのパルナス画廊でナム・ジュン・パイクが13台のTVを使ったインスタレーションを発表してから、今年で37年になる。つまりビデオアートは当年37才になったわけである。ビデオアートの「父親」たる映画に関して言えば、1895年に生まれて37才の時にはすでに「戦艦ポチョムキン」(1925)も「アンダルシアの犬」(1928)も創られていた。しかるにビデオアートの方はどうか?私が少なくとも日本中心に活動している限りにおいては、

ビデオアートという言葉に対する、(アート関係者も含めて)一般 的な人々の反応の多くは「ビデオアートって何ですか?」あるいは全く逆に「ビデオアートって昔あったな・・。で、今もそんなものまだあるのか?」といったようなものだ。どちらにせよビデオアートは人々に真剣に受け止められてはいない。「ビデオ=芸術」という考えは、相変わらず人々にとって馴染みの薄いものであると言わざるを得ないだろう。その一方で世に「メディアアート」だとか「デジタルアート」だとか言われて一部もてはやされているが、そのような形で「メディア」だとか「デジタル」だとかといった概念がジャーナリスティックな言説の領域で濫用されているのと裏腹に、それらには何らの実体もない。また、それらの名の下に活動している表現者の多くが、結局表現形態としてもシステムとしても電子映像というものを把握し使いこなすことがまるでできずにいる。だがそのような「メディア」にせよ「デジタル」にせよ、ビデオという観点からとらえ直してこそ初めて実体を持ち得、把握することができるのだと私は思う。表現形態としても概念としても、ビデオというものは30~40年ほどでくみ尽くされ捨てられてしまうような貧しいものでは到底ない。それどころかそれは未だほとんど問われてすらいないとさえ言えるだろう。「ビデオとは何か」という問いに答えることのできた者が、今まで何人いたといえるだろう。実際あらゆる面 から見てまともなビデオ論はほとんどなされておらず、また正にビデオなるものを把握したと言えるような偉大なビデオアート作品も数えるほどしかない。つまりビデオなるものは未だ確立されていないのだ。だが言うまでもなく社会においてビデオの果 たす役割の重要性は減るどころではなく、その領域はほとんど無反省なままマスメディアを主な担い手として拡大され続ける一方である。このようにマスメディアによるビデオの乗っ取りが社会のスペクタクル化の中心として完成されつつある現在にあって、それに飲み込まれることなくビデオについての探求をおこなうことは不可避かつ緊急の課題であると言えるだろう。

 このようにビデオアートの活動やビデオについての考察が今まで不活発であった責任の一端は、アーティストにあると私は思う。たとえば経済的な面 で言えば、かつてのビデオを使用したアーティストたちの多くは、それが機材商品の宣伝効果 につながると考えたメーカーや、新しい美術商品に飛びついたギャラリーなどにその制作及び発表を依存していた。まだビデオ機材が個人ではとても所有できないほど高価であった当時にあっては、メーカーやギャラリーの資金と結びつくことでしか活動が難しかったからである。そして彼らはビデオアートがひとつの不可欠な表現形態として社会的に認知されるための努力をしないまま、それらのブームが去ると沈黙していったのである。それはまさしく社会のスペクタクル化が進行するとともに、アーティスト自身がスペクタクル的モデルを内面 化して虚偽意識を作り上げ、マスメディアやアカデミズムに吸収されていった過程である。だがビデオ機材が個人にも所有可能となった現在こそは、そのような上からの「恩賜」だとか全体からの「承認」を待つという形でしか作家活動ができない(そしてこれはきわめて日本的でもある)という足枷から解放されて、ビデオアートがこのスペクタクルという幽霊たちの跋扈する社会において、いかに独立することができるかを模索すべき時期であると思う。そして無論それはビデオのスペクタクル化に抵抗して活動するアーティストの側からの動きとして起こるべきであろう。

 だがそのようなビデオアートの再興を個人で立ち上げることは到底不可能であろう。従って私たちはまずビデオアーティスト・ワークショップにおいてビデオアーティストのネットワークの形成を目的とした。それも単なるネットワークではなく、具体的にその中で作家活動における協力関係が成り立つようなネットワークである。実際ビデオアートと一口にいっても、そのカテゴリーでくくられるものの中には、インスタレーション、パフォーマンス、ドキュメンタリー、ドラマ、アート(上映作品)など様々であり、それぞれ使用される機材などもかなり異なるために、今まで異なる形態の作家たちの具体的なセッションは行われにくかったきらいがあった。だが機材が小型化・軽量 化されて誰もがそれを所有することができるようになりつつある現在にあっては、それらの作家たちがビデオという共通 の媒介のもとに集まることができ、そしてめいめい楽器ひとつ持ち寄ってセッションするあの音楽家たちのように、ビデオアーティストたちもセッションすることができるのである。

 このようにして私が瀧健太郎、服部かつゆきとともに1999年末よりビデオアーティスト・ワークショップを始めてから、京都・神戸を含めて6回を数えたわけであるが、それには形式のみならず内容においても作家的な関心に十分応え得るようなものがあると思う。毎回そこに集まる人々によって形を変えて行く予見不可能な一種の即興性がこのワークショップの魅力のひとつだが、そのようにしておこなわれた実験的共同制作によってここに生まれ出てきた数々のプロセス及び成果 は、紛れもなくビデオの反スペクタクル的な方向を示唆している。これらをおこない続けまた発表してゆくことは、ビデオの確立に向けての第一歩となり得るであろう。